JOmonjin

〜教育・ミニマリスト・幸福論〜

お盆にどう生きるかを考える。

「どう生きるか」という答えのない問いに答えなければならない。

私が今抱えている問題の一つです。

どう生きるかという言葉の前提には、生きるということがそもそも含まれています。

私自身、今のところ、自分から命を絶つというようなことは考えておりませんので、この問いを自分に課すことは妥当だと思われます。

 

では、「どう」生きていくのかについてですが、

これが全くもって答えが出てこないのです。

現在図書館にいるのですが、お盆期間中にも関わらず、多くの人が本を読み、多くの学生らしき人たちが自習しています。大変熱心だな、すごいなと思ってしまいます。

かくいう私も、このようにパソコンに向かって何やらパチパチと文字を打っているのですから、傍から見たら、お盆なのに仕事をしている人に見えるかもしれません。まぁ、全くもって趣味をこなしているわけですが…。

 

さて、どう生きるかの話に戻りたいと思います。

私はなぜこんなにもどう生きるかについて悩むのか、考えました。

生きるということすでに現在進行形で行っているわけでして、すでに生きるという部分についてはクリアしているわけですが、全く自分自身に充実感がないわけです。そうなると、生きるという状態への満足は、「どう生きるか」において比重は軽いものであり、「どう」の部分が最重要であり、深めるべき箇所なのだということに気付かされます。

 

しかし、「どう」とは私にとって何を指すのでしょうか。

職業ではなさそうな気がします。

住む場所でしょうか

給料でしょうか

人間関係でしょうか

 

「どう」に含まれる要素は多種多様過ぎて観点は様々考えられます。

このように考え始めると、どうにもこうにも手がつけられなくなって、考えることを放棄してしまうんですね。これの繰り返し。また一から考え直して、また放棄。

 

やはり、このような場合には、「どう生きたくないか」という逆を考える方法が有効なようです。ですので、私も考えてみました。

 

・スーツを着たくない

・夏は暑いところは嫌だ

・田舎すぎるのは無理

・他人の人生に関わる責任は負いたくない

・人に指図されるのは嫌だ

・体育会系のノリは嫌だ

・フルタイムで働きたくない

・休みがないには無理

・仕事人間にはなりたくない

 

…やはり逆を考えると具体的に出てきます。以下に希望よりも不満が多いことか…。

これをまとめてみると

 

・スーツを着たくない 服装自由

・夏は暑いところは嫌だ 東日本のほうがいいかも

・田舎すぎるのは無理 都会のベッドタウンに住む

・他人の人生に関わる責任は負いたくない 娯楽のような職業?

・人に指図されるのは嫌だ 自分で起業?

・体育会系のノリは嫌だ 近づかないようにする

・フルタイムで働きたくない 自分で起業すれば関係ない?

・休みがないには無理 自分で起業すれば関係ない?

・仕事人間にはなりたくない 自分で起業すれば関係ない?

 

というような未来が描けてしまいます。

しかし、これが本当に「どう生きるか」の答えになっているのか、という問いが浮かんできます。

結局自分が考えていることの大半は、職業や働き方であり、「人生をどう生きるか」の1部分に過ぎないわけです。

もちろん、その職業や働き方を変えることで、付随するように、様々なことが変わるであろうことが重々承知しておりますが、なにかこう、人生における仕事の比重があまりにも高く、それをきめることが人生を決定づけている自分の思考回路にも嫌気がさしてしまうわけです。

 

私はこの状態から抜け出したいと思っているにもかかわらず、なかなか抜け出すことができないでいます。

仕事からの解放、組織からの解放を願い退職したにも関わらず、また仕事への従属を志願してしまっているのです。

この矛盾をどう克服すればよいのか、それが今の私のどう生きるかの答えなのかもしれません。

 

私が今座っている長椅子には、成人男性が私の他に3人おり、それぞれ本を読んでいらっしゃいます。みなさん大変熱心に読んでおられ、私のタイピング音などは気にもとめていないようです。

 

少し時間が経ち、男子高校生がスマートフォンを持って椅子に腰掛けました。勉強の合間の休憩なのでしょう。欠伸をしながらも素早く親指を動かし続けます。

 

人を観察していても、本心を知ることはできません。

本当は明日を生き抜ことができるかどうか不安な人がこの中にいるかも知れない。

本に癒やしや逃避を求めているのかもしれない。

 

私にとって、どう生きるか、という問いは難問です。

しかし、これを問いとして受け止めることが本当に適切なのかという疑問もあります。

今の世の中で、本当にどう生きるか、と問うことが本当に精神衛生上人間的な行為なのか。

どう生きるか、という問いと回答に希望を見いだせる世の中なのか。

どう生きてもいい、という言葉は本当に裏切らないのか

 

私なりにつらつらと書いてみましたが、どう生きるか、について考えること自体がそのまま生き方に反映されているのかもしれません。

 

もう少し考えたいと思います。