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〜教育・ミニマリスト・幸福論〜

35歳で公務員退職して、大学院行って卒業した件

大学院卒業しました。(本来は修了か?)

とても充実した2年間でした。35歳にもなってもう一度学びたいと思えるなんて夢にも思っていませんでした。(大人になれば、勉強したくなるっていう理由がなんとなくわかります…。)

 

大学院生活のここがイイ!!

・自由な時間を取れる

・若い世代を交流がもてる

・大学教授との距離が近い

・昔とちがってほとんどのことがオンラインでできる

・人脈が増える

・自分の興味をもってくれる人が増える

・研究が楽しくなってくる

 

色々ありますが、とにかく今まで仕事に使ってきた時間と労力を自分と自分の研究のために使えるというのが最高でした。

また教授との出会いも最高でした。

大学時代の教授との付き合い方って、なんか他人行儀で世代間格差を埋められない感じでしたけど、いろんな意味で教授を近く感じることができ、研究の悩みや方向性を相談できたのは大きかったです。

 

それから、学割を使えることも大きかったです!

私の研究フィールドは日本の伝統文化に関わることなので、

博物館や美術館へ行く回数が必然的に多くなります。その時の入場料が学割になることや、大学がキャンパスメンバーに加入していると常設展は無料になったりしていました。これはでかい!!2年間でのべ100回以上展覧会に行った私としては本当にありがたい制度でした!!

 

学生という身分を思いっきり使い倒すには、

学生限定の制度を利用しまくるしかありません。

・学生限定の割引

・学生限定の出資金

・学生限定のサービス

あげればキリがないですが、使い倒すことによって無職でも相当な節約ができます。

(特にアマゾンプライムの学生版はおすすめ!!)

 

卒業して思うことは

35歳で公務員退職して、大学院行って良かった!!ということです。

 

4月からは、給料は前職に比べてガタ落ちですが、契約社員として働くことになりました。そして、空いた時間を使って新しい事業を始める予定です。まずは契約社員として、クイブチをつなぎ、いろんな人の力を借りて挑戦をしようと思います。

 

もちろん、新しい事業の内容は

「日本の美術・芸術分野を軸」にしたものです。

これはまさに大学院で研究してきたことです。自分がまさか、日本の美術や芸術について考えたり、発信したりする立場になるなんて…。

これも、自分で決断をして、公務員を辞め、大学院にいき、自分の興味を深めたからだと思っています。

 

今、人生に悩んでいる方。

仕事をやめたいと思っている方。

なにか壁にぶち当たってモヤモヤしている方。

 

大学院イイですよ。自分さえしっかりしていれば、いろんな世界を見ることができると思います!!

 

37歳・無職・大学院生活における学びについて。挑戦と成果

お久しぶりです。

大学院生活もあと3ヶ月になりました。

ここらで、大学院生活での出来事、大学院に入ってよかった点、挑戦したことなどまとめていきたいと思います。

 

大学院で学んだこと

1 書道を中心とした芸術について

書道という文化をとおして、様々なことを学びました。書道という視点から世の中を見てみると、書道が抱えている問題が実は、世の中の問題とも直結しており、どの分野でも同じような問題、課題を抱えているということを理解しました。

これが大学院だよな、と思います。

 

2 仕事はほどほどでもいいのでは

結局、自分は2年間長期的なバイトのようなものはしませんでした。貯金を崩しながら生活していましたが、授業料は免除でしたし、イライラもしないので散財することもほとんどありませんでした。結果、お金を使わない生活ができた(身についた)と感じています。

 

3 自分の未来は考えても出てこない

来年度には、大学院を卒業する予定ですが、正直に就職先もなにも決まっていません。どうしようという気持ちもありますが、そこまで自分自身を心配してもいません。これが退職の効果だと思います。

 

大学院に入ってよかったこと

1 学ぶ姿勢は自分からがスタンダード

自分で何を学びたいのか、研究したいのか、これは大学院生活で1番重要だと思います。決まっていないと多分何も面白くないし、充実もしません。大学院生活は仕事をしている時とは比べ物にならないほど時間があります。自分の研究テーマに関係しそうな本は片っ端から読みまくって床につく、というのが健全な大学院生活だと思います。

 

2 時間がある

私はとにかく、美術館、博物館、旅行、ブログ、講演会、作品制作など、明らかに仕事をやっているときにはできなかったことに挑戦しました。ラジオデビューできたこと、一人カラオケに行ったこと、ハンドドリップでコーヒーを飲んだこと…。時間があるからできることに挑戦できました。そして、まだあと3ヶ月でやれることはたくさんありそうです。楽しみます。

 

3 人生を取り戻せる

人生を取り戻すなんて大げさかもしれませんが、確実に自分の未来について考えることができました。と言っても、自分の就職先が決まったわけではありません。自分が何が好きで、何が嫌いなのか、なんで好きで、なんで嫌いなのかということについて、解像度を上げて知ることができたということです。これをしっかり自分の中で醸成できたのは重要だと思います。

 

4 教授たちはなんだかんだで学問のプロ

大学時代と大学院時代では、明らかに自分のスタンスが違います。教授への接し方も変わります。質問の質も質問に対する回答も全然違います。そういう中で

 

大学院に入ってから挑戦したことリスト(未達成含む)

1 ラジオに出演…いい声になりたいなって思った。これもいい経験

2 展覧会の開催…求められているもの、求めているもの、需要と供給

3 サイトを作ってみた…センスが試されます。

4 筋トレしてみた…これは続かなかったな。やはり一度パーソナルに行ったほうがいいかも

5 毎朝おにぎりを作って大学へ…1ヶ月だけ達成。やり方は身についたので、これからはうまくできそう

6 早起きの習慣化…大学院生には無理でした。

7 歌ってみた動画をつくってみた…まだ挑戦できていない。需要あるのか?

8 作品を大量に作った…作品を作っても残すように加工しないとすぐ捨ててしまうことが判明。その時にしかかけないものもあるから、裏打ちなりして残しておくべき。

 

大学院生活もあと少し。もう少し遊びたいと思います!

 

 

 

 

 

美術館と博物館を満喫して、夏休み終了(泣)

夏休みが終了しました。

明日から、働きマンに戻りたいと思います。

今年の夏休みを総括します。

 

出光美術館

根津美術館

岩手県立博物館

岩手県立図書館

・成島和紙

・東山和紙

・墓参り

・清次郎

・肉の米内

 

結構充実しておりました。

毎年、こんな感じだったんだろうけど、仕事しているときは

明日から始まる仕事が嫌すぎて楽しむ気になれなませんでした。

 

結局楽しむためにはストレスフリーな生活にしないと無理なんだなと感じています。

ストレスがないから楽しめる

 

明日の仕事に行きたくないと思ってしまう仕事はしない。

責任がありすぎる仕事はしない。

そういうことなんだと思います。

 

豊かさはすでに持っているのではという話

だんだんと、このブログが備忘録的な一面を帯びてきたが、それはそれでいいので続けていきたい。

 

捨てるという概念と持つという概念について考えることがある。

 

捨てることは持つこと、とか

捨てることによって豊かさを得た、とか

 

捨てることと得ることは一体となっているようで、この表現に違和感を抱くことはない。

しかし、最近この得るという動詞に対して違和感を持った。

 

結論から言うと、得るのではなく、見つけた、とか気づいた、とかの方が圧倒的にしっくりくるということだ。

豊かさはそこらへんにゴロゴロ転がっている。

しかし、それに気づくことができないでいる。

時間に追われ、仕事に謀殺されていれば、豊かさなんて全く気づくことはない。

 

最近ようつべで見た動画で、

時間、数値化、フィードバック、成果、評価、価値

みたいなワードを連呼するビジネス系の啓発動画を見た。

 

まるでそれが正義かのように話をしていた。

再生回数もすごいから、きっとそういう系の動画は人気なのだろう。

話をしている人も、有名企業にいた人ばかりで、そういうことが大好きな人たちなのだと思う。

 

かく言う私も、そうやって見始めたわけだから、ある意味戦略にハマってしまった人なのだと思う。

 

しかし、視聴を途中でやめてしまった。

なぜかはよくわからないのだが、この数値化とか、価値とかに意味を感じなくなってしまったからだ。

特に数値化という概念は、便利であるが、人をジリジリと苦しめていく。

豊かさを蝕む、元凶だとも思っている。

 

世の中は、さまざまなことを数値としてみることができるようになった。

数値にできるように、評価の仕方も進化し、より数値化がしやすくなった。

 

そうなると、人は、どうあるべきか、という部分を置き去りにして、

どうするべきか、ということばかりに目を向けてしまう。

 

どうあるべきか、は明らかに人間の豊かさを考える契機になる

しかし、どうするべきか、のような方法を議論することは、人間を更に苦しめかねない。

 

だからこそ、人間は豊かさを求めるのかもしれない。

豊かさは曖昧である。数値は具体的であり、否定し難い

豊かさは見えない。数値は見えないものも見えるようにしてしまう

豊かさは共通理解を必要としない。数値は共通言語としての役割を果たしている

 

私達が今考えなければならないのは、数値からの脱却なのかもしれない。

 

私達はすでに、持っているのである。捨てたら得るのではない。

捨てたら、元々もっていたものが見えてくるだけなのだと思う。

見た目を変えることはワクワクする

お盆期間なので、地元に帰ってきている。

今日は、以前懇意にしていた美容室に散髪に行った。

 

地元を離れ、1年半になるが、ここの美容室は頻繁にお世話になっていた。

予約をしようとすると、担当してくれていた美容師さんが、独立し、新しい店舗を経営しているという。

 

年齢も同年代で、話しやすい美容師さんだったが、まさか独立していたなんて。

 

驚きと羨ましさで、すぐに予約を入れた。

 

以前、頻繁に通っていたが、仕事をやめたことも、大学院に入学することも何も言わず、の状態での再開だった。

 

お久しぶりです、というお互いの挨拶のあとは、仕事の話にもなった。

もちろん、退職したこと、大学院だから髪型も自由だよ、ということを伝えると、様々な髪型を提案してくれた。

 

ここがこの美容師さんの素敵なところである。

 

私のように外見を気にかけたいとは思うものの、正直似合う髪型も、似合う長さも分からないような人間にとってはこの提案はありがたい話なのである。

 

独立についても聞いてみた。

「借金だらけで、リスクばっかりですけどね」

言葉は弱気だが、全く絶望や悲嘆は感じられない。謙虚なのだろう。期待感が自分にもあるのだろう。

「前の店舗とすごく近くて、探しやすかったよ」私がそう言うと

「やっぱり、せっかく来てくれるお客さんに独立するからって遠くに行きます、っていうのはなんか違う気がして」という答えが返ってきた。

この感覚がこの美容師を美容師たらしめているのだろう。会話の中の言葉の重みがそこだけ違う気がした。

 

私が現在住んでいる地域は、ここと比べたら都会が近く、美容室もごまんとある。最近通っていた美容室も悪くはないが、髪型がパターン化してきた。

もちろん、私が、髪型について要望を出さず、

 

「かっこよくしてください」

「イケメンにしてください」

などという意味不明な要求をするから最終的にいつものパターンになってしまうのだろう。

 

最終的に今日の髪型は、いつもとは違う髪型になった。

色々提案してくれた中で、私が

「最近同じ髪型でつまらない」といった時、すかさず

「前髪伸ばしてみるのも全然似合いますよ」とアシストを入れてくれた。

 

前髪を伸ばすという選択肢はまったくなかった。

これなんだろうな、美容師に求めているヒアリングって、とその時思った。

 

更に提案をされ、なぜか未来を想像し、テンションが上がってしまった。

 

美容室を変えることは勇気がいることだと思う。

現状維持バイアスがある以上、わたしたちはこれ以上悪くならないと思われる選択肢を選びがちだ。

久しぶりに地元に帰り、久しぶりに新しい髪型を提案された。

これからの髪型の方向性としての最終的なゴールは、パーマである。

それまでに挫折せずに伸ばし続ける。

多くの人が伸びるのを待たずして切ってしまうらしい。

 

長い戦いになりそうだが、なぜかワクワクしている。

美容室を変えることは、人生を変えることに一役かっているのだと確信した瞬間であった。

仕事に疲れた自分へ。

時間があると、いろんなことに思いをめぐらす

今、図書館にいるのだが、

 

あ、あの人昨日もいたな

あの人の服めちゃ似合ってるな

受験勉強頑張れ

え?この人絵描いてるけど漫画家志望か?

 

とか。

勝手に人を観察して、想像を膨らます。

世の中的にお盆で、国民が休んでいるのに、わざわざ図書館に来て、思い思いの勉強をしている姿に少し感動する。

 

最近のブログは病み日記のようになっているが、答えのない難問に挑戦しているという充実感がある。

よく学者が、問いに挑戦し、精神崩壊して自死してしまうみたいなことがあるが、私の場合もそういう感覚に陥ることがある。まぁ、私ごときが悩んだところで、何も解決しないし、何も社会的にセンセーショナルでもないのだが、時々、そういう感覚になり、

 

あ、これがうつ病か?これが偉人の悩みか?と思ってしまうことがある。

 

人間は本当に複雑にできていると思う。

バランスが大事という言葉で集約できるほど単純ではない。

中庸という言葉があるが、中庸ばかりをやっていれば、それも偏りであろう。

 

普通という人生を歩くことが偏りなのであれば、偏りのない人生などは存在しない。

 

ただし

私自身は偏りをそこまで恐れていない。なぜなら今のところ、その偏りによって犯罪を犯したいとか、死にたいと思うことはないからだ。

 

思い返すと、自分の存在意義が脅かされた経験は、繰り返される仕事の日々にあった。好きなことをやっているという感覚もなく、人間関係も希薄。

 

なぜ自分が生きていかなければならないのか、本当に分からなかった。感謝もされず

※されていたかしれないが、自分の感覚としては皆無だった。

なにも充実感もないまま、日々を過ごしていた。

 

人間らしさを取り戻すために、心も体も必死に抵抗していたのだろう。次第に体調が悪くなり、眠れなくなった。

 

私のような人は意外に多いと思う。

私は、普通に仕事をし、成人男性として普通に生きてきたが、その普通が自分を苦しめていた。

 

今は「自分がよく生きるためにどうしようか」という問いを自分で立てられるようになった。健全である。

 

その中で思ったことがある。それはやりたいことなんて何もない、ということである。

 

そして、そのやりたいことというのは、あまりにも狭義の意味でのやりたいことだということだ。そして、そのようなちっぽけなやりたいことに、いつもくよくよしていたのかと感じる。

 

視点を変え、やりたいことの方向を変えることが必要である。

やりたいことなんてない。

でも生きる。

やりたいことをずっと追い求めることが人生であるならば、人生とは本当に旅であり、終わりが見えない。

 

であれば、こうやって文章を考えて、書き記すことは人生の痕跡として無意味

脱ミニマリズム論〜不必要を必要とする人間〜

大学院に進学し、芸術を扱うようになってから、芸術というものがいかに浪費であるかということを学んだ。

※もちろん、芸術の存在意義については多種多様な考えかたがあり、ただの浪費と捉えることが適切ではないことは承知している

 

そのような芸術の文脈の中で、ミニマリズムとは何なのかについて、語りたい。

ミニマリズムと芸術の関係については、あまり語られていない気がする。

 

そもそも、ミニマリズムとはなんだろう。

私の感覚としては

・究極にものを捨てる

・捨てたから大事なものがわかってくる

・大事なものを大切にしていこう

 

大雑把にいうとこのような概念だと思う。

言い換えれば、自分にとって重要なこと以外はすべて捨てよう、という話だろう。

 

しかも、捨てれば捨てるほど、その大事なものは見えてくるらしい。

 

私もミニマリズムに目覚め、多くのものを捨ててきた。特に引っ越しの際には、多くのものを捨て、売り、譲ってきた。

 

そのせいか、家は小さくていいことに気づき、机の上は片付き、作業もしやすくなった。

私はこの状態を喜び、これがミニマリズムなんだと感動したわけである。

 

時が経ち、私は大学院に進学する。今の仕事を退職し、大学院に進学するという決断をしたのは、他でもないミニマリズムのおかげだと思っている。

すべてを捨てたら、自分の気持ちに気づけたという感覚であろうか。

 

そして、大学院生活も1年と半分が過ぎた。

私の部屋はミニマリストとはほど遠い。

作品の道具に溢れ、試作品の山があり、材料の山がそこにある。

 

芸術はミニマリズムとは対極にある概念なのではないだろうか。

 

最近は、ミニマリズムの考え方と似た「引き算の美学」のようなものが至る所にある。洗練されており、ほとんど装飾されていないものをみると、なんだか落ち着かなくなっている自分がいる。

 

わたしたちにとって、必要とはなにか、不必要とはなにか

芸術は不必要の塊であり、不必要を人間は必要としているのではないか。

 

すべて目的のためのみにある世界に、どんな彩りがあるのだろう。

色、形、言語、歴史

 

人間が生物として生き延びるためには、ほとんどが無駄かもしれない。

ミニマリズムがもたらすものは人間のロボット化かもしれない

 

ミニマリズムという概念の定義はまだまだあやふやではあるものの、ものだけでなく、人間関係にもその概念を適用する場合がある。

もちろん、特定の人との関係は切れないものが多いが、人間関係をもっと簡素なものにしようという動きは十分に感じられる。

まさに、自分にとって心地よいかどうか、損かどうかだけで人間関係が構築されようとしている。さらには、その特定の人間関係ですら切ろうとするミニマリズムも今後はあり得るだろう(考えすぎだろうか)

 

無駄を省き、目的以外のものは持たず、飄々と生きていく

ロボットのような生活である。

 

果たしてこれが本当に21世紀の生き方なのであろうか。

 

私達はミニマリズムを「生き方」として提案することに少し敏感になったほうがいいのではなかろうか。

 

先にも紹介したが、私はミニマリズム的思考や行動を行い、自分の次のステージについて考えることができた。

 

しかしミニマリズムを生き方として捉えると、つらくなる傾向にあるに感じている。目的に合致するもの以外を排除することで遊びの入る余地がなくなってしまうからだ。

それよりも、思考を整理したり、自分に気づく方法として、活用するのがいいのではなかろうか。

そもそも複雑な人間にとって、ミニマリズムが万能だとは思えない。

 

ミニマリズムは生き方ではい。方法である。

私はそう感じている。