JOmonjin

〜教育・ミニマリスト・幸福論〜

仕事に疲れた自分へ。

時間があると、いろんなことに思いをめぐらす

今、図書館にいるのだが、

 

あ、あの人昨日もいたな

あの人の服めちゃ似合ってるな

受験勉強頑張れ

え?この人絵描いてるけど漫画家志望か?

 

とか。

勝手に人を観察して、想像を膨らます。

世の中的にお盆で、国民が休んでいるのに、わざわざ図書館に来て、思い思いの勉強をしている姿に少し感動する。

 

最近のブログは病み日記のようになっているが、答えのない難問に挑戦しているという充実感がある。

よく学者が、問いに挑戦し、精神崩壊して自死してしまうみたいなことがあるが、私の場合もそういう感覚に陥ることがある。まぁ、私ごときが悩んだところで、何も解決しないし、何も社会的にセンセーショナルでもないのだが、時々、そういう感覚になり、

 

あ、これがうつ病か?これが偉人の悩みか?と思ってしまうことがある。

 

人間は本当に複雑にできていると思う。

バランスが大事という言葉で集約できるほど単純ではない。

中庸という言葉があるが、中庸ばかりをやっていれば、それも偏りであろう。

 

普通という人生を歩くことが偏りなのであれば、偏りのない人生などは存在しない。

 

ただし

私自身は偏りをそこまで恐れていない。なぜなら今のところ、その偏りによって犯罪を犯したいとか、死にたいと思うことはないからだ。

 

思い返すと、自分の存在意義が脅かされた経験は、繰り返される仕事の日々にあった。好きなことをやっているという感覚もなく、人間関係も希薄。

 

なぜ自分が生きていかなければならないのか、本当に分からなかった。感謝もされず

※されていたかしれないが、自分の感覚としては皆無だった。

なにも充実感もないまま、日々を過ごしていた。

 

人間らしさを取り戻すために、心も体も必死に抵抗していたのだろう。次第に体調が悪くなり、眠れなくなった。

 

私のような人は意外に多いと思う。

私は、普通に仕事をし、成人男性として普通に生きてきたが、その普通が自分を苦しめていた。

 

今は「自分がよく生きるためにどうしようか」という問いを自分で立てられるようになった。健全である。

 

その中で思ったことがある。それはやりたいことなんて何もない、ということである。

 

そして、そのやりたいことというのは、あまりにも狭義の意味でのやりたいことだということだ。そして、そのようなちっぽけなやりたいことに、いつもくよくよしていたのかと感じる。

 

視点を変え、やりたいことの方向を変えることが必要である。

やりたいことなんてない。

でも生きる。

やりたいことをずっと追い求めることが人生であるならば、人生とは本当に旅であり、終わりが見えない。

 

であれば、こうやって文章を考えて、書き記すことは人生の痕跡として無意味

脱ミニマリズム論〜不必要を必要とする人間〜

大学院に進学し、芸術を扱うようになってから、芸術というものがいかに浪費であるかということを学んだ。

※もちろん、芸術の存在意義については多種多様な考えかたがあり、ただの浪費と捉えることが適切ではないことは承知している

 

そのような芸術の文脈の中で、ミニマリズムとは何なのかについて、語りたい。

ミニマリズムと芸術の関係については、あまり語られていない気がする。

 

そもそも、ミニマリズムとはなんだろう。

私の感覚としては

・究極にものを捨てる

・捨てたから大事なものがわかってくる

・大事なものを大切にしていこう

 

大雑把にいうとこのような概念だと思う。

言い換えれば、自分にとって重要なこと以外はすべて捨てよう、という話だろう。

 

しかも、捨てれば捨てるほど、その大事なものは見えてくるらしい。

 

私もミニマリズムに目覚め、多くのものを捨ててきた。特に引っ越しの際には、多くのものを捨て、売り、譲ってきた。

 

そのせいか、家は小さくていいことに気づき、机の上は片付き、作業もしやすくなった。

私はこの状態を喜び、これがミニマリズムなんだと感動したわけである。

 

時が経ち、私は大学院に進学する。今の仕事を退職し、大学院に進学するという決断をしたのは、他でもないミニマリズムのおかげだと思っている。

すべてを捨てたら、自分の気持ちに気づけたという感覚であろうか。

 

そして、大学院生活も1年と半分が過ぎた。

私の部屋はミニマリストとはほど遠い。

作品の道具に溢れ、試作品の山があり、材料の山がそこにある。

 

芸術はミニマリズムとは対極にある概念なのではないだろうか。

 

最近は、ミニマリズムの考え方と似た「引き算の美学」のようなものが至る所にある。洗練されており、ほとんど装飾されていないものをみると、なんだか落ち着かなくなっている自分がいる。

 

わたしたちにとって、必要とはなにか、不必要とはなにか

芸術は不必要の塊であり、不必要を人間は必要としているのではないか。

 

すべて目的のためのみにある世界に、どんな彩りがあるのだろう。

色、形、言語、歴史

 

人間が生物として生き延びるためには、ほとんどが無駄かもしれない。

ミニマリズムがもたらすものは人間のロボット化かもしれない

 

ミニマリズムという概念の定義はまだまだあやふやではあるものの、ものだけでなく、人間関係にもその概念を適用する場合がある。

もちろん、特定の人との関係は切れないものが多いが、人間関係をもっと簡素なものにしようという動きは十分に感じられる。

まさに、自分にとって心地よいかどうか、損かどうかだけで人間関係が構築されようとしている。さらには、その特定の人間関係ですら切ろうとするミニマリズムも今後はあり得るだろう(考えすぎだろうか)

 

無駄を省き、目的以外のものは持たず、飄々と生きていく

ロボットのような生活である。

 

果たしてこれが本当に21世紀の生き方なのであろうか。

 

私達はミニマリズムを「生き方」として提案することに少し敏感になったほうがいいのではなかろうか。

 

先にも紹介したが、私はミニマリズム的思考や行動を行い、自分の次のステージについて考えることができた。

 

しかしミニマリズムを生き方として捉えると、つらくなる傾向にあるに感じている。目的に合致するもの以外を排除することで遊びの入る余地がなくなってしまうからだ。

それよりも、思考を整理したり、自分に気づく方法として、活用するのがいいのではなかろうか。

そもそも複雑な人間にとって、ミニマリズムが万能だとは思えない。

 

ミニマリズムは生き方ではい。方法である。

私はそう感じている。

お盆にどう生きるかを考える。

「どう生きるか」という答えのない問いに答えなければならない。

私が今抱えている問題の一つです。

どう生きるかという言葉の前提には、生きるということがそもそも含まれています。

私自身、今のところ、自分から命を絶つというようなことは考えておりませんので、この問いを自分に課すことは妥当だと思われます。

 

では、「どう」生きていくのかについてですが、

これが全くもって答えが出てこないのです。

現在図書館にいるのですが、お盆期間中にも関わらず、多くの人が本を読み、多くの学生らしき人たちが自習しています。大変熱心だな、すごいなと思ってしまいます。

かくいう私も、このようにパソコンに向かって何やらパチパチと文字を打っているのですから、傍から見たら、お盆なのに仕事をしている人に見えるかもしれません。まぁ、全くもって趣味をこなしているわけですが…。

 

さて、どう生きるかの話に戻りたいと思います。

私はなぜこんなにもどう生きるかについて悩むのか、考えました。

生きるということすでに現在進行形で行っているわけでして、すでに生きるという部分についてはクリアしているわけですが、全く自分自身に充実感がないわけです。そうなると、生きるという状態への満足は、「どう生きるか」において比重は軽いものであり、「どう」の部分が最重要であり、深めるべき箇所なのだということに気付かされます。

 

しかし、「どう」とは私にとって何を指すのでしょうか。

職業ではなさそうな気がします。

住む場所でしょうか

給料でしょうか

人間関係でしょうか

 

「どう」に含まれる要素は多種多様過ぎて観点は様々考えられます。

このように考え始めると、どうにもこうにも手がつけられなくなって、考えることを放棄してしまうんですね。これの繰り返し。また一から考え直して、また放棄。

 

やはり、このような場合には、「どう生きたくないか」という逆を考える方法が有効なようです。ですので、私も考えてみました。

 

・スーツを着たくない

・夏は暑いところは嫌だ

・田舎すぎるのは無理

・他人の人生に関わる責任は負いたくない

・人に指図されるのは嫌だ

・体育会系のノリは嫌だ

・フルタイムで働きたくない

・休みがないには無理

・仕事人間にはなりたくない

 

…やはり逆を考えると具体的に出てきます。以下に希望よりも不満が多いことか…。

これをまとめてみると

 

・スーツを着たくない 服装自由

・夏は暑いところは嫌だ 東日本のほうがいいかも

・田舎すぎるのは無理 都会のベッドタウンに住む

・他人の人生に関わる責任は負いたくない 娯楽のような職業?

・人に指図されるのは嫌だ 自分で起業?

・体育会系のノリは嫌だ 近づかないようにする

・フルタイムで働きたくない 自分で起業すれば関係ない?

・休みがないには無理 自分で起業すれば関係ない?

・仕事人間にはなりたくない 自分で起業すれば関係ない?

 

というような未来が描けてしまいます。

しかし、これが本当に「どう生きるか」の答えになっているのか、という問いが浮かんできます。

結局自分が考えていることの大半は、職業や働き方であり、「人生をどう生きるか」の1部分に過ぎないわけです。

もちろん、その職業や働き方を変えることで、付随するように、様々なことが変わるであろうことが重々承知しておりますが、なにかこう、人生における仕事の比重があまりにも高く、それをきめることが人生を決定づけている自分の思考回路にも嫌気がさしてしまうわけです。

 

私はこの状態から抜け出したいと思っているにもかかわらず、なかなか抜け出すことができないでいます。

仕事からの解放、組織からの解放を願い退職したにも関わらず、また仕事への従属を志願してしまっているのです。

この矛盾をどう克服すればよいのか、それが今の私のどう生きるかの答えなのかもしれません。

 

私が今座っている長椅子には、成人男性が私の他に3人おり、それぞれ本を読んでいらっしゃいます。みなさん大変熱心に読んでおられ、私のタイピング音などは気にもとめていないようです。

 

少し時間が経ち、男子高校生がスマートフォンを持って椅子に腰掛けました。勉強の合間の休憩なのでしょう。欠伸をしながらも素早く親指を動かし続けます。

 

人を観察していても、本心を知ることはできません。

本当は明日を生き抜ことができるかどうか不安な人がこの中にいるかも知れない。

本に癒やしや逃避を求めているのかもしれない。

 

私にとって、どう生きるか、という問いは難問です。

しかし、これを問いとして受け止めることが本当に適切なのかという疑問もあります。

今の世の中で、本当にどう生きるか、と問うことが本当に精神衛生上人間的な行為なのか。

どう生きるか、という問いと回答に希望を見いだせる世の中なのか。

どう生きてもいい、という言葉は本当に裏切らないのか

 

私なりにつらつらと書いてみましたが、どう生きるか、について考えること自体がそのまま生き方に反映されているのかもしれません。

 

もう少し考えたいと思います。

35歳大学院生のお盆休み

世間的にはお盆休みに入りました。

お墓参りに行ったり、親戚で集まったり、コロナが5類になってから初めてのお盆ということで、皆さん張り切っていると思います。

 

私も実家に帰って参りました。

実家はど田舎ですので、ある意味心を休ませる感じになってちょうどいいです。

図書館に来てみたのですが、2年前まで全く気づかなかったことがあります。

 

それは、図書館前にあるオブジェが奈良美智の作品だったということ。

なんかよくわからないかわいいオブジェだったわけですが、まさか奈良美智だったとは驚きです。

他にも、数点芸術品らしきものが鎮座しているのですが、2年前の私も、また他のみなさんもほとんど素通りしていたと思われます。

なにこれ?なんか変なの。

ぐらいの感想しか持てないと思われます。

 

でも、改めて作品を見てみると、柔和な表情、普通でない形状など芸術品を思わせる箇所が何箇所もあるわけです。

うーん。さすが奈良美智

 

大学院に行き、芸術について少しでも勉強するにつれて、そこにある作品や背景について考えることが多くなりました。自治体の施設にある芸術品はビッグネームの作品も多い。今まで素通りしてきましたが、もう少しアンテナを高くして、見てみようと思います。

備忘録 人生はビジネスじゃない

大学院に入学し、1年と半年がすぎようとしている。

あと半年もすれば大学院も卒業する(できるかどうかはわからないが)

 

今日は備忘録的な感じで今思っていることを書いていく。(内容はマジで0)

 

ストレートで入ってきた院生とのギャップについて。

考えてみれば、一回り以上年齢が離れているわけで…。

 

時々小言も言いたくなる時もあるが、今の20代の方々は本当に真面目に感じる。

遊んでいない。飲んでいない。恋愛していない。

でも仕方ないよなと思う部分もある。お金かかるもん。

遊んだり、飲んだり、恋愛してたら。

 

大学に残るという選択肢もあるということを聞いて、全く嬉しいと思えないのは、

・研究が嫌い

・若者たちとやっていける自信がない

・研究が成果として残るのか不安

ということがある。

 

大学に来たメリットは

自分をもう一度見つめ直せたこと。

 

そこで確認できたのは

 

自分はなにかを作り出すことが好きだ。

作品を作るのがきっと好きだ。

指揮者をやれていたのは、きっと作品を作るのが楽しかったから

感動を作り出すのが楽しかったから

 

結局そこに行き着くんだと思う。

 

文章もつくり出すものの一つ。だからブログは続けているのかも

 

でも研究してなにかを作り出すのは本当に大変

目的とか意義とか方法とか本当に無理。

研究って手続きが面倒なんだよね。きっと。それが今の自分が研究をやめたいと思っている理由なのだと思う。

 

方法って何

目的って何

 

なんで目的ばかりに縛られなくては行けないのか

なんか疲れてくる。

 

研究していると毎日令和の虎をやっている気分になる。

 

あれって楽しいのかな。

あれって虎が認めたものは全部うまくいっているのかな。

 

生き方を変えるっていうことは、目的を変えるということ

目的は変わるもありだけど、なくすもあり

 

社会と通じるために、もちろん目的は必要。共通言語みたいなものだし。

 

でも個人ではいらない。

人生はビジネスじゃないし、仕事でもない。

 

やりたいことなんてないんだよ。

そんなこと聞かれたって答えられないわ。

夢も目標も自分らしさも不要

最近、夢とか目標とか考えることに疲れてしまった。

そもそもなぜ、夢とか目標を設定しなければいけないのだろう。

 

小さい時から、夢とか目標を持つことが善だと思うように仕込まれていたのかもしれない。

 

仕事を退職して、大学院にいる。研究をすすめる中で、いろんな「なんで?」が出てくる。自分の中で「なんで?」が発生してくるわけだけど、それは、まったく将来や未来につながるものではない。

 

研究内容も結局、自分にしかできない研究ではなくて、ただただ「なんで?」を積み上げた結果できたテーマになった。

 

夢とか、目標が自分を苦しめているという事実を実感した時、人間らしさを取り戻した気がした。

人間の本来の生存目的って動物と同じはず。

 

3大欲求を満たして、ゆっくり生きたいと思うようになった。

 

話は変わるけど、最近不登校とか、精神的に参っている中高生が多いと聞く。

不登校ってそんなに悪ではないはずだけど、どうしてこんなに問題視されているんだろう。

 

これにも目標とか夢とかが関係しているように思う。

不登校だと目標に到達できないとか、夢から遠ざかるとか。

そもそもそんなすごい夢を中高生が持っているとは思えないけど、レールからはみ出すことで、自分が社会の中で善と思われていることが達成できなくて、苦しんでいるのかな、とも思ってしまう。

 

今、不登校とかになってもそれって社会との接点がなくなるわけでもないし、むしろ忙しすぎる学校生活から離れて自分と向き合うチャンスなわけで、そんなに気にすることでもないと思うんだが…。

 

私自身、今目標とか、夢は特にない。自分らしく生きたいというよりは人間らしく生きたいと考えている。

人間らしさって、

食いたい

寝たい

エロいことしたい

 

の他にも、

 

歩きたい

自然に触れたい

文字を書きたい

声を出したい

きれいなものを見たい

知らないところに行きたい

 

とかもあると思う。

それでいいんだと思う。

生きていく上で、価値観の変化は自然なことで、悪ではない。

若い時は、夢とか目標を持つこと自体が重要だったけど、もうそれは不要な気がする。

 

今はより、人間として人間を生きたいと思えるようになった

お土産におすすめのスイーツ【函館編】

 

・なぜ、こんな紹介をするのか

  • あまりにも美味しかったから
  • スイーツの美味しさに気づいたから
  • みんなに伝えたい!!

という、自己満です。それでは行きましょう!!

 

・おすすめスイーツ「函館洋菓子スナッフルス チーズオムレット」

こちら!!

北海道函館市の洋菓子店スナッフルのチーズオムレットです!!

  • とろけます
  • 食感が柔らかく、音も楽しめる
  • 甘いんですが、しつこくない
  • ペロッといけちゃいます。

様々な種類が発売されていますが、プレーンを食べていただきたいです。

まずはプレーン。その後に色々な味を楽しんでいただけたらと思います。

※私も何種類か食べましたが、結局プレーンが一番美味しいという結論に至りました。

絶対に食べてほしい一品です!!

 

以下、友人の感想

・ふわふわです。

・チーズケーキかと思ったら全然違う!!

・もっと食べたい笑

・お土産でも、自分用でもOK

・箱もかわいい

・リピしたくなる

などなど

 

皆さんにもぜひ食べてほしい一品です。