だんだんと、このブログが備忘録的な一面を帯びてきたが、それはそれでいいので続けていきたい。
捨てるという概念と持つという概念について考えることがある。
捨てることは持つこと、とか
捨てることによって豊かさを得た、とか
捨てることと得ることは一体となっているようで、この表現に違和感を抱くことはない。
しかし、最近この得るという動詞に対して違和感を持った。
結論から言うと、得るのではなく、見つけた、とか気づいた、とかの方が圧倒的にしっくりくるということだ。
豊かさはそこらへんにゴロゴロ転がっている。
しかし、それに気づくことができないでいる。
時間に追われ、仕事に謀殺されていれば、豊かさなんて全く気づくことはない。
最近ようつべで見た動画で、
時間、数値化、フィードバック、成果、評価、価値
みたいなワードを連呼するビジネス系の啓発動画を見た。
まるでそれが正義かのように話をしていた。
再生回数もすごいから、きっとそういう系の動画は人気なのだろう。
話をしている人も、有名企業にいた人ばかりで、そういうことが大好きな人たちなのだと思う。
かく言う私も、そうやって見始めたわけだから、ある意味戦略にハマってしまった人なのだと思う。
しかし、視聴を途中でやめてしまった。
なぜかはよくわからないのだが、この数値化とか、価値とかに意味を感じなくなってしまったからだ。
特に数値化という概念は、便利であるが、人をジリジリと苦しめていく。
豊かさを蝕む、元凶だとも思っている。
世の中は、さまざまなことを数値としてみることができるようになった。
数値にできるように、評価の仕方も進化し、より数値化がしやすくなった。
そうなると、人は、どうあるべきか、という部分を置き去りにして、
どうするべきか、ということばかりに目を向けてしまう。
どうあるべきか、は明らかに人間の豊かさを考える契機になる
しかし、どうするべきか、のような方法を議論することは、人間を更に苦しめかねない。
だからこそ、人間は豊かさを求めるのかもしれない。
豊かさは曖昧である。数値は具体的であり、否定し難い
豊かさは見えない。数値は見えないものも見えるようにしてしまう
豊かさは共通理解を必要としない。数値は共通言語としての役割を果たしている
私達が今考えなければならないのは、数値からの脱却なのかもしれない。
私達はすでに、持っているのである。捨てたら得るのではない。
捨てたら、元々もっていたものが見えてくるだけなのだと思う。